日陰な日記

自分の気持ちを整理するためのブログです。

3月11日の今日思うこと。

今日は3/11。

テレビをつければ、4年前の大震災の話題ばかりだと分かっているのでつけない。

私の盛岡での生活は、あの日から始まったと言っても過言ではない。


あの日私は盛岡の自宅にいた。今の家ではないけど。実家(実家は盛岡ではない)で息子を出産し、盛岡に来て3日目だった。産後まだ1ヶ月経ってなかったので、家をでたことがなかった。盛岡はどんな街か知らなかった。

経験したことないほど揺れたけど、幸い、本棚の本が落ちたくらいで済んだ。でも、停電が続き、夫が帰ってくるまでは、産まれたての息子と二人っきりで心細かった。

家の中でダウンジャケットを着て、余震の度にドキドキし、ドアが開かなくなったときのためにあらかじめ少し開けておいて、息子を抱いて、ひたすらじっとしていた。


幸い、携帯のネットは繋がった。釜石で4メートルの津波というニュースが目に飛び込んだ。釜石は夫の実家がある。お義父さんとお兄さん家族が住んでいる。叔母さんや叔父さんもいる。しかも、夫の実家は海のすぐそばだ。お義父さんは漁師だ。

夫にメールした。

夫から返信が来た。

「まじで死んだかも」


そんな。まさか。いやいや。きっと大丈夫だって。


そんな、期待というか、甘い考えは、夫の帰宅後薄れていった。

地震の直後は電話繋がったけど、それから繋がらない。親父は船を見に行ったらしい」


夫の携帯のワンセグでテレビを見た。気仙沼の映像が流れた。まるで戦争のようだった。戦火が流れているように見えた。今、現実に起こっていることとは信じられなかった。


それから、盛岡に住んでいる、夫の後輩も呼んで一晩過ごした。真っ暗な中、ペンライトのような懐中電灯しかなく、それもいつ電池が切れるか分からない。

オムツを替えたり、食事するときだけつけた。


食事は幸い、お昼に作ったチャーハンの残りがあった。あと、冷凍庫に、夫の実家から送ってもらった鯖があった。水も出なかったが、ガスもプロパンなので、火がついた。

「親父の鯖が食べられるのは、これが最後かもしれない」

夫はそう言って、鯖の塩焼きをかみしめた。


次の日も停電は続いた。夫の実家がどうなっているか、情報も入ってこない。余震はあるが前日に比べると小さくなっていた。


夫は買い物に行った。いつまで停電が続くかわからない。いつまで冷蔵庫の食料が持つか分からない。できる限り買えるものは買っておこう。

開いている店は少なかったが、なんとかオムツや駄菓子を買ってきた。その日、残っていた鯖を私にくれて、夫達は駄菓子を食べて過ごした。

「悪いけど、食料の最優先は息子だから」

夫は後輩くんにそう言っていた。

つまり、私の母乳だ。私の母乳がでないと困るから、私に優先して食事をくれたのだ。

息子優先が本音か建前かは分からないが、私を気遣ってくれたのは確かで、おかげで私の母乳は止まらずに済んだ。


その日の夜、電気が復旧した。盛岡は割と地盤が強く、被害が少なかったこと、岩手の中では中心部であることから、他のところより早く復旧したようだ。私たちは、抱き合って喜んだ。


また次の日の13日、後輩くんが家に帰ったあと、夫は釜石に向かった。ギリギリ往復できるくらいのガソリンが残っていた。車がプリウスだったのが幸いした。


夫が出かけた後、私はただテレビを見て、息子の世話だけをして過ごした。

夜になり、夫から電話があった。電話の内容はこうだった。

「甥っ子たちは、それぞれの学校や保育所で避難して無事。姉(お兄さんの奥さん)も、末っ子連れて走って逃げて無事だった。兄は仕事中で、職場は無事。それぞれ、別々の避難所にいたけど、ちょうど姉たちがヘリで中心部の体育館に輸送されるところだったから、オレの車でみんな同じ避難所に連れて行った。親父は叔母さんを避難させた後、船見におりて、波が来て、車に乗ったところで、車ごと流されたらしい。見た人がいるみたいだ。」

夫は泣いていた。お義父さんが流されたことにではなく、他の家族が無事だったことに泣いていた。

夫は夜中に帰ってきた。日付が変わり、14日になっていた。

14日は、私の誕生日だ。

夫は、小さいおにぎりを持っていた。避難所で配られたらしい。「オレはいい」と断ったが、お兄さんに「持っていけ」と言われ、持って来たのだという。

「こんな小さなおにぎりしか食べられないなんて、、、」

夫は泣きながらおにぎりを食べていた。

疲れていた夫は

「誕生日おめでとう。おやすみ」と言ってくれて、寝てしまった。


その後、夫は何度も釜石に足を運んだ。その度に、親戚や、友人や、可愛がっていた後輩などの訃報を聞くことになった。


数日後、夫は、可愛がっていた後輩の一人が、避難者リストに載っているのを見つけた。泣きながら「良かった」とつぶやいた。私にとっても、サークルの後輩だったので、本当に良かったと、安堵した。


少しずつ、少しずつ、閉まっていたお店が開き、ガソリンスタンドに並ぶ列も短くなり、前の日常に戻ろうとしていた。

物資の不足は、意外と早く回復し、念のためと買い込んだ中国産の冷凍野菜は、やはり美味しくなく、捨てることになった。


月日が流れ、みんなそれぞれ、新しい生活を始めていた。

サークルの後輩たちが次々に結婚し、子供が産まれる家庭も多かった。

昨年度は、我が家の第二子も含め、出産ラッシュだった。

そんな中、3月11日に誕生した命も、二つあった。

1人は、私の高校の友人で、震災があった年に、いわゆる「絆婚」をした子の子供。

もう一人は、震災の数日後に避難者リストで見つけた、夫の後輩の子供だった。


もちろん、偶然だろうが、彼女たちにとって、この3月11日は、最悪の日であり、最高の日でもある。

震災の記憶が薄れ、ただ純粋に、誕生日を祝える日は来ないかもしれないが、あの日を振り返るために、とても意味を持った、特別な日なのだと思う。

私も、3月11日が来るたびに、震災のことも、まだ見つからないお義父さんのことも、2人の子供の事も思い出すだろう。